数学が密かなブームということで、遠山啓著「現代数学入門」(ちくま学芸文庫)をもとに現代数学について解説しています。
ギリシャというのは農業国家ではなく、商人や、現在でいえば、中小企業が集まったような国でした。
そして、 都市を自宇高10万人以下位の小さな都市をあちこちに作りました。
その都市はそれぞれ独立性が高く、その中でギリシャの人々は自由な議論をしたのでした。
ギリシャには奴隷がいましたが、自由な市民は、盛んに自由な討論をしたのでした。
ギリシャは、農業も行っていましたが、農業は自作農が多かったといわれます。
そのために、奴隷以外の自由な市民は大変討論を盛んに行いました。
プラトンの「対話篇」を見れば、ソクラテスが街を歩いては人を掴まえて、議論を吹っかけては自分の考えを喧伝するということが解ります。
このように討論が自由だったことから論理が発展したことは、想像に難くありません。
他人をいかに自分の意見に同意させるのかの弁論術が発展しました。
これが専制的な国では、自由な討論というのはできずに、論理学が発展する事はなかったのです。
論理というのは、対等な人々がたくさん集まって議論するというシチュエーションがなければ発展は見られないものです。
これが王の一言ですべてが決まってしまう国や議論を行う事を問答無用に禁じている国では、ギリシャのようには論理は発展しませんでした。
ギリシャにおいて自由な議論が行えるというのは、議論にくみするお互いの人々が、共通の認識の基盤に立っていなければ、議論というものはおよそ成り立ちません。
例えば二人の人間が討論する場合には、お互いに共通認識するものが存在しなければ討論そのものが成り立つはずはありません。
議論をする人が全て同じ土俵の上に載っていなければ議論というものは発展しないのです。
それがギリシャ釈迦水では醸成されていたということです。
これを数学に当てはめますと、数学の共通の土俵は公理となります。
公理というものは、誰もが承認せざるを得ない真理です。
例えば、「二点を通る直線は一本しかない」ということは、どんなにつむじ曲がりであっても承認せざるを得ない心理、つまり、公理です。
このように数学の中のごくわずかな真理、つまり、公理をまず誰もが承認し、公理を様々に組み合わせて証明してゆくことになります。
以上のようにギリシャの自由な議論の中から、数学の中に論理で新しい事実を次々と証明してゆくという新しい考え方が生まれたのです。
たぶん、エジプトなどの専制国家では、ギリシャのような論理を通して新しいものを証明してゆくと言った数学が発展する事はなかったように思います。