数学が密かなブームということで、遠山啓著「現代数学入門」(ちくま学芸文庫)をもとに現代数学について解説しています。
以上のように誕生したのが公理主義です。
ラジオのようにばらばらにされた部品は、配線図が匱なように、ばらばらにされた部品を組み立てるのに設計図が必要です。
この設計図に相当するのがヒルベルトの意味の公理です。
ユークリッドの公理は、誰も疑う事が出来ない自明な事を命題の形で論じたものでしたが、ヒルベルトが唱える公理とは、自明の事実の必要がなく、唯、内部矛盾が含まれていなければ、それは、公理と看做すのです。
この点で、自由に公理を設定できるようになりました。
ヒルベルトは、公理をそのように見直す事で数学の構想力を一気に解放させたのです。
この点を建築家の仕事と比べるとよく解ると思います。
建築家がある建物を設計しようとする時、建築家はどのように考えるでしょうか。
まず、考えられるのは、建築家は、構想力を大胆に活用して思い切って新しい建物を設計しようとすると思います。
この点で建築家は、自由です。
しかし、建築家は、一方で重要な制限が加えられてもいます。
それは、力学の法則に従って設計しなければならないということです。
極論を言えば、いくら自由だからと言って中空に浮かんでいる柱のない建物を設計してはならないということです。
数学者も建築家と似たようにことをしているのです。
数学者は、どのような公理、または公理系を選ぶかは自由です。
しかし、公理系の間に矛盾があっては駄目です。
建築家の力学の法則に当たるのが数学者にとっての論理の法則です。
建築家が力学の法則に従うこと以外に自由であるのと同じように、数学者は論理の法則にしたがう以外自由なのです。
しかし、その自由とは何でしょうか。
建築家が力学の法則以外自由に作ったものに良し悪しがあるし、美しい建築と醜い建築を見分ける事が出来ます。
それらを見分けるのは、力学の法則ではありません。
なぜならば、良い建築も悪い建築も同じく力学の法則に従っています。
そのために、建築に区別が生じるのは、建築物の使用目的と美学的なものさしによって 決まってきます。
数学者の設定する公理系に関しても同じことが言えます。
数学者が自由に設定した公理系にも良い公理系と悪い公理系、美しい公理系、醜い公理系の区別があります。
この区別は論理的に正しいが誤っているかにあるのではなく、その使用目標と美学的なものさしに陰を求めなければなりません。
唯、矛盾を含まないというだけならば、いくらでも違った公理系を設定する事が可能です。
そして、そこには選択の基準が示されていません。
基準を悪用しますと、一人一人の数学者が勝手に各々違った公理系を考え出して、一人一人が全然別の数学を研究するという危険がなくはないのです。
そのような事が生じますと、「百万人の数学」ではなく「一人一人の数学」になってしまい、てんでんばらばらな数学がこの世に存在するという事になります。
実際に、ヒルベルトの公理主義が登場したころには、それを警告する人がいました。
しかし、その後の数学の発展を見る限り、そのような危険に陥ることはありませんでした。
確かに、公理系を設定するのは、一人一人自由ですが、その自由は放恣を意味してはいなかったのです。
数学者は、私たちを取り囲んでいる自然や社会に存在している法則に似せて、公理設定をしたからなのです。
数学者は、自由を乱用しなかったのでした。
ノイマン(1903~1957)の『数学者』という本には、数学に関してのことが書かれていますが、ノイマンは数学には二重性があると言います。
それを箇条が帰すれば、
(1) 論理的に矛盾がない限り、いかなる公理系も自由である
(2) 公理系は私たちが住んでいる世界の中にある何らかの法則に気元を持っている
これは、自由とそれを拘束する条件です。
ノイマンが言うように、数学というものが単に二重性に留まるのか、それともこの二重性を統一する何かがあるのかは、解りません。
しかし、人間がいくら空想をたくましくしても所詮自然の一部に過ぎないのだから、自然から逸脱することはないと思う人もいる筈です。
ここで大切なのは、数学にはね融合しがたい二重性に貫かれてあることであり、むしろ、この二重性の均衡の上に立っているということです。
しかも、その近郊は、静的なものよりも動的なものの均衡です。
一方が優越すれば、他方がそれを追い越そうと努める、そのようなものが、動的な均衡です。
ヒルベルトの公理主義は数学の腕章を鮮やかに浮かび上がらせ、その事で数学とは何かという事を新しい立場から問い直すきっかけになったことは否定できません。